兎と狼のラビリンス

こちらは白泉社『狼陛下の花嫁』の二次創作ブログサイトです。(作者様・出版社様とは関係ありません)

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可愛い部下の、タイム☆トラベル

こんばんは!慧ネンです~(^^♪

昨日は西の祭典でしたね!サークル参加の方も一般参加の方も、楽しく過ごされたでしょうか?
体調不良もあり今回も参加を見送った慧ネンですが、通販で申し込んだお宝が届くのを楽しみにしてます♥

さて、本日当ブログ『兎と狼のラビリンス』は、開設三周年を迎える事が出来ました!
無事にここまで来れたのも、ひとえに皆様のお陰だと思っています(^v^)
感謝の気持ちを込めまして、ささやかながらお礼の記念SSをご用意させて頂きました☆

思った以上に長くなってちょっとビックリ…。前後編にしようかなとも思ったのですが結局一話に纏めました。
そしてこのSSのどこかに、しょうもないオマケがあります。ご興味ある方は探してみて下さいね。

今年も去年と同じ、上司と部下シリーズで書いてみました~。
少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです(^^♪
それでは、どうぞ☆



***

ブログ開設三周年記念小説

可愛い部下の、タイム☆トラベル


決算がようやく終り、慌ただしかった白陽コーポレーションの各営業課も、ようやく落ち着きを取り戻していた。桜の蕾も膨らみ始めた三月の末、冷え込みが厳しかった冬がやっと過ぎ春を思わせる日差しが差す温かい日。
四月に新しく入ってくる新入社員の教育指導に忙しくなる前に、一課の手の空いてる者は掃除に勤しんでいた。

夕鈴は先輩社員や明玉達同期社員数人と、大量の書類が詰め込まれている資料室を片付けていた。情報は日々目まぐるしく流れ動いていく。古過ぎる物は処分していかないと、限りあるスペースは大量の紙で埋もれて溢れ返ってしまう。

先輩社員に必要性の判断を仰ぎ、処分する物はまとめて紐で括る。男性社員が次々とそれを運び出していき、資料室に残った女性社員数人は室内の掃除を始めた。

床を掃いたり窓を拭いたりと手は止まる事無く動かしながら、女だけになるとついお喋りに花を咲かせてしまう。
暫く他愛のない事を話しているうちに、当然の流れというか恋愛の話になった。
彼とどこまで関係が進んだとか、○○でデートしたとか、楽しそうな会話を聞きながら脚立に登って棚の上を掃除していた夕鈴に、明玉がふと話を振って来た。

「そう言えば、あんた課長とどうなのよ?」

思わず一瞬手を止めた夕鈴だったが、何事も無かったかのようにまた掃除を再開する。

「…どうって?」
「そろそろ付き合って一年経つでしょ?結婚しよう、とか言われちゃったりしないの?」
「な、無いわよ、そんなのっ!」

何て事を言うんだと、シナを作ってからかってくる明玉に夕鈴は反論する。
二人だけならともかく、同期や先輩もいるのに…!と思ったら、夕鈴と課長の関係を知っている皆は、興味津々といった感じでニヤニヤしながら会話に耳を傾けている。

「え~?今日も色っぽい跡付けてるくせに、何も進展無し?」
「…え?」
「見えてるわよ、こ・こ!」
「な!?や…嘘っ…!?」

トントンと自分の項を示す彼女に、夕鈴は思わず身を捻りそこを手で押さえた。
不安定な脚立の上にいた彼女の身体が、ぐらりと傾く。

「きゃ…!?」
「夕鈴っ、危ない…!!」
「夕鈴ちゃんっ!!」

明玉達の目の前で、足場を失った夕鈴は脚立から落ち、冷たい床に身体を叩き付けられた。

「きゃああああああ―――!!」

甲高い悲鳴が上がり、資料室の傍を通りかかった社員達が何事かと走り込んで来る。

「早くっ!瑠霞先生をっ!」
「課長にも連絡してっ!」
「…汀さん!しっかり!!すぐ先生が来るからね…!」

声が上がり周囲は出入りする人間で騒がしくなった。明玉達は夕鈴を囲むように膝を付き、必死に声を掛ける。
乗っていた脚立がそれほど高い物ではなかった為、落ちた高さもあまりなかったが、それでも頭を打っている可能性があり迂闊に動かせない。
意識が朦朧としているらしい夕鈴は、呻くような声を上げていたがやがて気を失い瞳を閉じた。


いたい…痛い…。
身体が痛い…。頭が重い…。

夕鈴がぼんやりと目を開けると、白衣姿の美しい女性が覗き込んでいた。

「…目が覚めた?」

照明が眩しくて、夕鈴はパチパチと目を瞬かせる。

「…貴女、資料室の掃除中に脚立から落ちたのよ。覚えてる?」

問い掛けには答えずただ不思議そうに周囲を見渡している夕鈴に、白陽コーポレーションの医務室に勤務する女医・瑠霞は首を傾げた。
落ちた時に頭を少しぶつけてこぶが出来ているので、記憶が混乱しているのかもしれない。

「お友達もすごく心配してるわ。さ、どうぞ。」

ベッドを仕切っているカーテンを開けて瑠霞が声を掛けると、
「夕鈴…!!」
泣きそうな顔の、いや、もう目に涙を溜めている明玉が飛び込んできた。

「明玉…。」
幼馴染で大親友の彼女の顔を見て、強張っていた表情がホッと緩む。

「夕鈴…!夕鈴っ!ごめんねえ…!!」

泣きながら、ベッドに寝ている夕鈴に抱き付く。
明玉は後悔していた。あの時自分が、脚立の上と言う足場が不安定な場所にいた夕鈴をからかったりしなければ、彼女は落ちる事も怪我をする事もなかった。
床の上でぐったりと横たわる親友の姿を見て、このまま目を覚まさなかったらどうしようと不安だった。

夕鈴はそんな明玉を宥めるように頭をポンポンと叩いたが、その動きは鈍くどこかぼんやりしている。

「…夕鈴?頭痛いの?」

身体を起こして夕鈴を覗き込んだ明玉が彼女に問うが、頭を押さえて首を振るだけ。
裂傷は無く、打撲と捻挫、頭のこぶだけで済んだが、やはり一度病院に行った方が良いのかもしれない。
そう瑠霞が思った時、廊下の方からカツカツと慌てたような靴音が近付いてくるのが聞こえてきた。先程一課の方に彼女が目を覚ました事を連絡したので、心配で堪らない彼が早速やって来たようだ。
コココンっと、もどかしげなノックの音が響き、瑠霞が入室の許可をすると焦ったような表情の、一課課長・黎翔が医務室に入ってきた。

ベッドに横たわったままこちらを見上げている夕鈴を見て、ホッと息を吐く。

「…悪いが、少しだけ二人きりにさせてくれ。」

泣き腫らして目を真っ赤にしている明玉と、瑠霞にそう頼んだ彼の声は少し震えていた。

パタンと扉が閉まり二人だけになると、黎翔はベッドの傍の椅子に力が抜けたようにぐったりと座り込んだ。
いつも自信に溢れた強い彼のそんな表情を初めて見て、夕鈴は驚いていた。

「あ、あの…課長…?」
「…ビックリした。お前が、脚立から落ちて意識が無いって聞いた時、また私は、お前を失うかもしれない恐怖に苦しめられるのかと…。」

以前、黎翔の婚約者だった紅珠を庇って階段から落ち、大怪我をした夕鈴。
彼女を失うかもしれないというあの時の恐怖が、再び彼を襲っていた。

夕鈴の前髪を掻き分けると、髪は生え際にはうっすらとその時の傷跡が残っている。
そっと指でなぞると、夕鈴は困惑したように黎翔を見上げた来た。

「…どうした?」

黎翔は、夕鈴が真っ直ぐに自分を見つめて来ない事に気付いた。
彼女は困惑気味に視線を彷徨わせているし、どこかおどおどしたような、黎翔に対しビクビクしているような…。
まるで、入社して一課に配属になったばかりの頃のように。

「…夕鈴?」

名を呼ぶと、びくんと身体を震わせ泣きそうな顔でこちらを見た。
その瞳は潤んでいて、愛して止まない恋人の姿につい、ベッドの上に横たわる夕鈴の上に屈み込んで、柔らかな唇にキスをした。

くちゅ…と静かな医務室に唾液が絡む音が響く。
何度口付けをしても飽きる事の無い彼女の咥内を余す所なく貪り堪能して、黎翔はようやく唇を離した。

――と、夕鈴は自分の口を両手で押さえ、黎翔を涙目で見上げたままプルプルと震えている。

彼女はとても恥ずかしがり屋だから、会社でキスされて照れて怒っているんだなと、舌を入れた少々ディープなキスをしてしまった彼はそう思っていた。

だから。

「いや~っ!何でぇ…!?」

悲鳴にも似た大きな声を上げた夕鈴に、突き飛ばされるように押され椅子から転げ落ちた時には、ただ茫然とするしかなかった。

聞き耳なんて無粋な事はしたくないけど大好きな瑠霞と明玉がこそこそと様子を窺っていると、夕鈴の声とドスンと言う音が中から響いた。
何事かと慌てて中に入ると目に入ったのは、半開きになったカーテンの向こう、無様に床に座り込んでいる黎翔と、上半身を起こした夕鈴が顔を真っ赤にして泣きながら自分の口元を押えている姿だった。

「わ~んっ明玉ぅ…!」
傍にやって来た親友に、夕鈴が泣きながら抱き着く。

「何やっているの。」

いつも自信に溢れた俺様気質の甥っ子を引っ張って立たせる。
呆然とした表情で夕鈴を見つめる彼を見て、何かがおかしいと二人は思う。

「…何、どうしたの?」
「きっ…きっ…キスされた…っ!」
「はあ?」

恋人同士なんだし、キスくらいするだろう。会社でした事を怒っているのかと思ったが、恋人が怪我をして不安な思いをした黎翔の気持ちを考えてここは許してあげるべきだ。

「課長すごく心配していたんだから、キスくらい許してあげなさい。」
宥めるようにそう言うと。
「つ、付き合ってもいないのに…キスするなんて酷いっ…!」
その言葉に、ビシリと部屋の空気が凍った。

「ゆう…汀?」

プライベートや二人きりの時のように『夕鈴』と呼びそうになって、思わずいつも社内で呼んでいる名字呼びに言い直す。
ビクッと身体を震わせて、明玉の胸元から恐る恐る顔を上げて黎翔を見る彼女の瞳は明らかに怯えていた。

これは…と、瑠霞は口元に指を当て思案し始め、もしかして…と思った明玉は夕鈴に質問をする事にした。彼女の肩を掴み身体を離すと、ベッドに座らせて視線を合わせる。

「…夕鈴、私の質問に答えて?自分の名前、誕生日とか言える?」
「うん。汀夕鈴、誕生日は四月○日…家族構成は……」

明玉の質問に、夕鈴はスラスラと答えていく。

「私の事は分かるよね?」
「もちろん。幼馴染で、親友の明玉でしょ?」

そう答えた後、夕鈴は困ったように首を傾げた。

「でも不思議、明玉ちょっと大人になった?髪もそんなに短かったっけ?」

明玉は確かにロングヘアーだった。……入社したばかりの頃は。
一年目の夏に、仕事をするのに邪魔だと言って腰まであった髪を肩までバッサリ切って、それからずっとショートのまま。

その事実に気付き、黎翔と明玉は固まる。

「…彼の事は分かる?」

ベッドの傍らに呆然自失のまま立ち尽してる黎翔の事は覚えているだろうかと問う。

「…第一営業課の珀課長で、私の直属の上司…です。」

確かにそれで合っている。間違いなく黎翔は一課の課長で夕鈴の上司なのだから。
でも今は、それだけの関係ではない。それなのに彼女の口から、恋人同士だと言う言葉が出て来ない。

「夕鈴あんた…今自分が何歳で、入社何年目か分かる?」

最後の問い掛けの、明玉の声は震えていた。
思い違いであってほしいと、黎翔は拳を強く握り締める。

「…?19歳で、入社一年目でしょ?」

その思いも虚しく、きょとんと『それがどうしたの?』とばかりに紡がれた言葉に、黎翔は絶望を感じて瞳を閉じた。


病院で検査した結果、脳に異常はないが落ちた時のショックで記憶が退行しているのだろうと言う事だった。
今の夕鈴の時間は、白陽コーポレーションに入社して間もない頃に戻っている。
黎翔は夕鈴にとってただの上司であって、恋人同士でもなければ告白すらしていない状態。おまけに、その頃と言えば、夕鈴は黎翔に嫌われていると勘違いしていた頃だ。

素直になれなかった黎翔の態度のせいで、誤解した夕鈴はずっと怯えていた。
ようやく恋人同士になって身体を重ね、時には喧嘩して擦れ違いながらもここまで来たのに。

黎翔は夕鈴と過ごした様々な思い出が浮かんで来るのに、彼女の記憶の中にその光景は無い。
――あの日々が、全て失われてしまったと言うのか。

黎翔が受けた衝撃とショックは大きく、仕事をしながら溜息を吐く時もあった。
止めたはずの煙草に手が伸び、飲む酒の量が増えた。

夕鈴はというと、翌日だけは念の為会社を休んだが、次の日からは出勤して働いていた。
記憶の退行で仕事でも分からない事が多かったが、それでも自分が出来る事を精一杯やった。それこそ、お茶汲みからコピー取りまで。

不安が全くないわけではない。
怪我をした日泊まった親友の家で、明玉に自分がこの四月で入社四年目で、もうすぐ22歳になる事を教えてもらった。鏡で見る自分の姿は確かに違っていて、子供っぽさが抜けて大人の女になっていく途中といった感じに思えた。
そして彼――、ただの上司のはずの珀課長と、恋人同士だった、と言われた時には、嘘でしょ?と困惑した。

いつも少しの事で怒って文句を言ってくる、意地悪で厳しい上司だと思っていたのに。
そういえば復帰してから一度も怒られていない。

(…何よ、別に怒られないならそれで良いじゃない…!)

これじゃまるで、怒られるのを期待しているみたいだと憤慨する。
けれど、何も言葉を掛けてもらえないのは悲しい。それに寂しそうな、切なげな瞳で見つめられると妙に気まずい。気付くとつい視線を逸らしてしまって、そのたびに落ち込んでいる課長を先輩社員達が宥めている声が聞こえるたびにやり切れなくなる。
明玉と同じように大人びた雰囲気の同期の姿を見ては置いて行かれた気分になり、入社した年の秋に一課に来たと言う柳方淵の睨み付けるような目も夕鈴を憂鬱な気分にさせた。

いけない、と夕鈴は頭を振って思考を追い払う。
今は勤務時間中、仕事仕事…!

「…課長、コーヒーをどうぞ。」
デスクに積まれた沢山の書類、仕事の邪魔にならないような場所にカップを置く。
「あ、ああ。ありがとう…。」
ちょっと面食らったような表情をした彼がカップを手に取り、一口飲んだ後驚いたように目を見開いた。
「…どうかしたんですか?」
首を傾げた夕鈴に「何でもない」と言葉を濁したけれど、背を向けて席を離れた夕鈴の後姿をずっと追っていた。

彼女の入れてくれたコーヒーは、黎翔の好みの味と同じだった。
砂糖もクリームも無し、ちょっと粉を多く入れて量はカップの真ん中より少し上、甘いものが大好きな彼女が、一口舐めて『苦い』と舌を出して眉を顰めた濃いめのコーヒー。

夕鈴が黎翔の好みを把握したのは付き合い始めてからで、記憶が無い彼女は知る由もないのに――。
心の奥底に、二人で過ごした日々の記憶が眠っているのだろうか。

そう思うと少しだけ見えた希望に、黎翔は久し振りに穏やかな気持ちになってコーヒーを飲み干した。


あの日から、4日が過ぎた。
黎翔はもちろんだが、一向に戻らない記憶に夕鈴本人はかなり焦り始めていた。

行った事のある場所に連れて行ってもらっても、写真を見せてもらっても何一つ思い出せない。
思い出せない事に苛立ちを感じ、気分が落ち込んでいく。

「まだたった4日でしょ?焦りは禁物!記憶は絶対戻るから、無理せずゆっくり行こう?」
そう言って宥めてくる親友に、
「明玉には今の私の気持ちなんか分かんないよ…!」
つい叫んで、夕鈴は明玉の家を飛び出していた。


更地になり、『売地』の看板が立っている場所を夕鈴は呆然と見つめる。

就職ししてからずっと住んでいたアパートがもうない事は、明玉から教えてもらっていた。
ちょっとした事件があり入居者も減り、つい最近取り壊しになったと。
「じゃあ私はどこに住んでいたの?」と聞くと、「課長と一緒に暮らしていた」と有り得ない答えが返って来て驚愕した。
恋人同士だった記憶が無い夕鈴は、さすがに彼と暮らす事は無理で明玉の家にお世話になっていたのに。
そこすらも飛び出してしまって、行くあてもない夕鈴はただ街を彷徨う。

住んでいた場所もなくなり、街を歩いても記憶にあるような景色は無い。
途中で降り出した雨は徐々に強さを増し、春先とは言え室内着のまま飛び出してきた夕鈴の体温を急激に奪っていく。
歩き疲れた夕鈴は、街の中心部から少し離れた場所で小さな公園を見付けて足を踏み入れた。

――この場所は知っている。

けれど記憶の中よりかなり古びて朽ち掛けているベンチや数少ない遊具が、どれほどの月日が流れたのかを物語っていて。

「…私、どこに行けば良いの…?」

絶望を感じて呆然と呟いた時。

「――夕鈴っ!!」

大きな声で名を呼ばれた。
振り返ると、傘も差さずずぶ濡れになった黎翔が、スプリングコートを翻しながら走ってくるのが見えた。

「…何してるんだ!明玉が心配していたぞ!?」

傍に駆け寄って着ていたコートを脱ぐと、細い彼女の身体を覆う。
夕鈴が家を飛び出したと明玉から連絡を受けた黎翔は、必死に彼女を探し回っていたのだ。
見付かってホッとしたが、涙で濡れた目で見上げられ、その表情の青白さに驚く。

「ゆ…汀…?」

さっきは『夕鈴』と呼んだくせに、今はわざわざ呼び直している。
課長が見ているのは、本当に今の自分なのだろうかと夕鈴は自嘲気味に笑う。
もう何も考えずに、ただ静かに眠りたい…。

「…おい!?しっかりしろ!夕鈴っ!?」

ぐらりと傾いた身体を支えてくれた彼の腕の温かさと、焦ったように呼ぶ声だけが聞こえた。

ピチャリと水が跳ねる音と、額に乗せられた何かの冷たさで夕鈴は目を開けた。
覗き込んでいるのは、初めて見る私服姿の課長…。

「ここは…?」
「…私の家だ。」

課長の家と言う事は自分はここで暮らしていたはずなのに、やっぱり何も思い出せなくて夕鈴はショックを受けた。
雨の中彷徨っていた夕鈴をマンションに連れて帰り、明玉に無事保護したと連絡した後。目を覚ました彼女に、ここで暮らすようにと黎翔は言った。

付き合い始める前も、とある事件で一時期同居した事もある。
部屋数はあるし、干渉し過ぎなければお互いのプライベートは十分守れる。
それにここで生活していれば、記憶が戻るのも早いかもしれない。

そう言われて、渋々ながら夕鈴は頷いた。

一緒に住み始めて一週間が過ぎ、夕鈴が記憶を失ってもうすぐ二週間になる。
彼との生活は、彼女が思っていたより穏やかで心地良いものだった。
記憶は相変らず戻らないが、以前ほど焦りを感じなくなった。イライラする事が無くなり、夕鈴は素直に明玉にあの日の事を謝る事が出来た。

バッグの中に入っていた、狼のマスコットのキーホルダーに付けられた記憶にない合鍵と。すっかり自分色に染まっていた、以前はゲストルームの一つだったと言う部屋を見て、本当に一緒に暮らしていたんだと実感して。

心の中に芽生え始めていた彼への恋心を、日々膨らませていた。

黎翔はキッチンやリビング、バスルームなどの共有スペースを自由に使って良いと言ってくれた。だが一つだけ、ベッドルームにだけは入らないでくれと言った。

同じマンションに帰っても、食事をした後少し言葉を交わしたらすぐにお互い自室に籠る。
部屋にはシャワー室もミニキッチンもあり、十分快適に過ごせるけれど。

こんなに傍にいるのに、交わされる言葉は少なく、合いそうになると逸らされる視線、触れない体温。
向けられる背中を見るのが辛い。
彼の存在が、こんなに近くて遠い――。

バスルームから水音が聞こえてくる。黎翔がシャワーを浴びているようだ。
その音を聞きながら、夕鈴の足は無意識に彼の寝室へと向かっていた。

一緒に暮らし始めてからの彼の態度。
『ベッドルームにだけは入らないでくれ』と言う彼の言葉。

この部屋を見れば、その答えが分かるかもしれない。
震える手でノブを回した夕鈴は、ゆっくりとベッドルームの扉を開けた。

部屋の中央に鎮座する、大きなベッド。そのすぐ横のローチェストの上に飾られた沢山の写真立てが目に入り、彼女は引き寄せられるようにそれに近づくととその一つを手に取った。
そこには、微笑む彼と――自分が写っていた。

いや、それだけではない。
どの写真も、二人とも笑顔で写っていて、どれほど幸せなのかが分かる。
キスショットや、裸の胸元をシーツで隠した姿の、恥ずかしげな自分の写真もある。

愛されている。
愛し合っている。
それが分かる、二人の思い出の写真。

こんな自分は知らない、覚えていない。
これは、私じゃない……!

彼が、どうして触れてくれないのかが分かった。目を逸らす理由が分かった。
彼が見ていたのは、私の中の記憶を失う前の私であって、今の私じゃない。

ここは誰にも侵す事の出来ない二人の世界。
私はここにいちゃいけない。

――記憶を失った私はずっと、時を彷徨う迷子のまま…。

ぽたぽたと写真立てに涙が落ちて笑顔が歪む。
どうして、彼に愛されてると思っていたのだろう?

「わ、あ…ああ…!うわあああああああ……っ!!」

慟哭にも似た悲鳴が洩れた。

「…夕鈴っ!!?」

シャワーを浴びて髪をタオルで拭きながらリビングに来た黎翔は、突然響いた夕鈴の悲痛な声に驚いて顔を上げた。奥のベッドルームの扉が開いているのに気付き、慌てて駆け寄って中に入る。

部屋の中央のベッドの傍に、写真立てを両手で握り締めたまま泣いている夕鈴が立っていた。
のろのろとこちらを見た彼女の顔は涙に濡れて、絶望と言う感情に染まっていた。

黎翔は夕鈴に近付くと、彼女の手からゆっくりと写真立てを引き抜く。
幸せそうに微笑む、自分達の姿。確か、付き合い始めて半年ほどたった頃に撮ったものだ。

「これを見たのか…。」

親指の腹で表面をなぞる。そして元の位置に戻すと、夕鈴の肩を抱きそっとベッドの上に座らせて自分のその隣に腰を下ろした。

「…悪かった。」

また夕鈴と一緒に暮らせるようになって本当に嬉しかったが、今の彼女には付き合っていた頃の記憶が無い。
離れたくなくて傍にいたくせに、見つめ合えばキスをしそうで、触れてしまえば抱いてしまいそうで。
夕鈴に嫌われるのが怖くて、つい視線を逸らしてしまい、触れそうになる手を必死に抑え自分を戒めていた。
だが。

「そんな私の態度が、お前をますます不安にさせていたんだな…。」

黎翔は自嘲しながら呟いた。

こんな弱々しい課長の姿は見た事ない。私は、彼に無理を強いていたの…?
そう思うと、涙が止まらなかった。

黎翔は身体を震わせて嗚咽を洩らす夕鈴の肩を抱き寄せた。
暫く会話も無しに二人ただ身を寄せ合って、彼女が落ち着くのを待っていると。

「課長が好きなのは今の私じゃなくて、記憶を失う前の私なんですよね…?」

変な質問をしている事は、彼女自身も分かっているのだろう。
小さな、消え入りそうな声で聴かれて黎翔は笑う。
自分自身にヤキモチを焼くなんて、バカな話だと思うけれど。
そんなに不安なら、何度でも言ってやる。

黎翔は夕鈴から一度離れると、彼女の両肩を痛くないように注意して、だがしっかりと掴む。
涙で濡れた瞳で見上げてくる夕鈴と、じっと見つめ合う。

「たとえ記憶があろうとなかろうと、過去も今も、未来も関係無い。
――私は、汀夕鈴と言う一人の女を愛しているんだ。」

夕鈴は驚いたように目を見開いた。

「…不安か?」
こくんと頷くと、ギュッと抱き締められる。
「信じろ。」
信じたい。
彼を、私と言う一人の人間を愛してるとまで言ってくれた彼の言葉を。

回された手が、頭を撫でたり髪を優しく梳いてくれる。この大きな手でもっと沢山触れて欲しい。その逞しい身体で抱き締められたい、彼の熱を感じたい。
もっと奥深くまで愛し合えたら、この不安もなくなるかもしれない。

記憶にないはずなのに、夕鈴の身体はじんわりと熱を持ち始めていた。
無意識に乾いた唇をぺろりと舐めると、突然彼が伸し掛かって来て勢いよくベットに倒される。

「ん、んう…っ!」

唇を塞がれて、深い口付け。息も吸えなくて、呻くような声しか出せない。
重なる彼の唇が熱い。余裕のない荒々しい口付けは続き、混ざり合った唾液が夕鈴の喉元へと伝う。

「あふぅ…」
ようやく離れてくれた彼に、短く息を吐きながらやだ、もっと…と思う。

「…お前、私をどうしたいんだ?」
「?」

言っている意味が分からなくて不思議そうに見上げると、彼はハアッと深い溜息を吐き。
「――可愛過ぎだろ…。」
そう言って、脱力した。

キスの後の物欲しそうな彼女の表情は、男の劣情を煽る。それが惚れている女ならなおの事。

「…良いんだな?」
潤んだ瞳で見上げてくる彼女を見下ろしながら、最終確認をする。
「今ならまだ止めてやれる。…始めてしまえば、止められないぞ?」

何だか初めてのデートの時も、ベッドの上で同じような事を聞いたな。あれからもう一年経つのに、まるで昨日の事のように思い出せる。

何だか少しおかしくなって小さく笑うと、夕鈴の細い腕が黎翔の身体に絡み付いて来た。

「…私に、貴方に愛されているんだと実感させて下さい

その言葉を皮切りに、再び伸し掛かった来た彼と共に夕鈴の身体はベッドに沈み、しばらくすると寝室からは甘い掠れた声が漏れるだけとなった。

チュンチュンとスズメの泣き声が聞こえる。それに応える声も。
春は繁殖の時期だと言うから、番だろうか…?

カーテンの隙間から入り込む太陽の光で大分明るくなった室内、自分を抱き締めたまま眠っている彼の重み、身体の隅々に残る彼の熱、彼が残した跡、久し振りに愛されて気怠い身体…。

「あはは……。」

恋人に抱かれて記憶が戻ったなんて、皆になんて言われるか。
お約束過ぎて、もう笑うしかない。

夕鈴は隣から聞こえてくる愛しい人の規則正しい寝息を聞きながら、彼に抱かれるたびにいつも見つめていた天井をじっと見上げていた。


「…で?ナニしてて記憶が戻ったって?ん?」

業務開始前の朝礼で、夕鈴の記憶が戻った事を一課のメンバーに伝えた珀課長。
昼休みになった途端、夕鈴は取り囲まれてしまった。分かっているくせに意地悪く聞いてくる親友や同僚に、身体を小さくして縮こまるしかない。

課長が心配そうにこちらの様子を窺っているが、自分が出て行けばさらにエスカレートするのが分かっているので動けない様子。

羞恥で顔を真っ赤にして泣きそうになっている夕鈴を見て、苛め過ぎたかと明玉達は反省する。
何があったか一発で分かるような、跡もつけている事だし…。

あの日、明玉がからかった項の跡は消えていたが、彼女の襟元の上から覗き込まなければ見えないギリギリのラインに咲いた、所有の証。

「きゃっ…!?先輩っ…!!」
先輩社員(♀)にペロンと襟元を捲られて、焦ったようにそこを押える夕鈴。

椅子をガタンと倒して立ち上がり、頬を紅くして慌てて駆け寄ってくる課長。

顔を真っ赤にして、思わず目を逸らした一課の男性社員達。


いつもと同じ時間が、今日も動き始める――。


END

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Comment

 

課長、甘いです!
もう独占欲丸出しで余裕のないあなたが大好きです(((o(*゚▽゚*)o)))
顔を赤くして駆け寄るなんて、もう、もう、かわいすぎます←

あっちもこっちもゴチゴチでした!

ブログ開設3周年おめでとうございます(o^^o)
これからも遊びに来るのでよろしくお願いします!
  • posted by まんまるこ 
  • URL 
  • 2016.01/11 03:10分 
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めっちゃ嬉しいです(^^)
このシリーズ最近私の中ではブームで読み返してたところなんです!

また、課長シリーズも宜しくお願いします♡(>◡<)♡

黎翔さんの実家との事とか…

あーでも、マイスイートホーム?の続きも気になるしー!!!

ゆっくりでいいんで宜しくお願いします♫
  • posted by ちろ 
  • URL 
  • 2016.01/11 03:34分 
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No title 

ブロ開設3周年おめでとうございます!
久しぶりの上司と部下嬉しいです。
記憶がなくたって結ばれる2人。何があっても大丈夫ですね。
これからもお話とっても楽しみにしています。
甘いお話ご馳走さまでした(o^^o)♪
  • posted by まるねこ 
  • URL 
  • 2016.01/11 16:31分 
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管理人のみ閲覧できます 

このコメントは管理人のみ閲覧できます
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  •  
  • 2016.01/11 22:58分 
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  • posted by  
  •  
  • 2016.01/12 10:10分 
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Re: タイトルなし 

まんまるこ様

独占欲は強いけれど、ヘタレなんですよね。うちの課長…。
あ、でも夕鈴と付き合い始めてからは、ちょっとヘタレがなりを潜めてる?←聞くな。

三周年お祝いのお言葉、ありがとうございます!
正直こんなに長く続けられるとは思っていませんでした。皆様のお陰です!
こちらこそ、これからもよろしくお願いします~(^^♪
  • posted by 高月慧ネン(まんまるこ様へ) 
  • URL 
  • 2016.01/17 15:24分 
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  • [Res]

Re: タイトルなし 

ちろ様

お?ちょうどマイブームだったんですか?読み返して下さってありがとうございます♥
このシリーズも、さっさと進めなきゃなあと思っているこの頃です。
いえ、本当にあっちもこっちも書き散らかしているので…。
だから読者の方は、続きが気になってやきもきするんですよね~m(__)m
当シリーズもスイートホームも、頑張って進めていきます(^^♪
  • posted by 高月慧ネン(ちろ様へ) 
  • URL 
  • 2016.01/17 15:29分 
  • [Edit]
  • [Res]

Re: No title 

まるねこ様

お祝いのお言葉、ありがとうございます~(^^♪
上司と部下も久し振りでしたね。ここに至るまでもこの後も色々あるのですが、取り敢えず二人の結び付の強さを書けて楽しかったです♪
これからも各シリーズ完結目指して邁進しようと思います!
  • posted by 高月慧ネン(まるねこ様へ) 
  • URL 
  • 2016.01/17 15:33分 
  • [Edit]
  • [Res]

Re: No title 

かざね様

こんにちは~。
三周年お祝いのお言葉、ありがとうございます(^^♪

このシリーズの二人が特に好きだと言って頂けて嬉しいです♥
付き合い始めるまでの課長はヘタレでしたが、付き合い始めたら可愛くなったのか(←なんか違う?)
独占欲丸出しの男は見苦しくも可愛い所がありますからね~(^^♪

これからも頑張って萌を吐き出していこうと思います☆
  • posted by 高月慧ネン(かざね様へ) 
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  • 2016.01/17 15:37分 
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Re: No title 

ますたぬ様

お祝いのお言葉、ありがとうございます~。
そしていつもコメント下さって、ずっとお付き合い下さる事、本当に嬉しく思います♥
このブログは三周年ですが、狼陛下の二次SSを書き始めたのはもう少し前になるので、トータル5年くらい?
そう考えると、結構長く続けてるな~と感慨深いものがあります。
そして、慧ネンの脳内どんだけ妄想が酷いんだと痛感中…。
最近はお題小説でまた新しいネタが降って来てるので、あ、こいつまた妄想してるんだと温かく見守って下さいませ。

おまけはじっくり見れば簡単だったでしょ?あんまり難しい隠し方は慧ネンには出来ないので…。
ホント大した事ないSSで申し訳ないです(*_*;
どのお話も、黎翔さん側が問題抱えてるな~。解決はいつになるのか、慧ネンにも目途が立たなくて前途多難。でも解決しないと、二人は永遠に結ばれないのだあ…(*_*;
…と言う事で、執筆頑張ります。←これが一番の問題☆
こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね♥
  • posted by 高月慧ネン(ますたぬ様へ) 
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  • 2016.01/17 15:48分 
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Author:高月慧ネン
『兎と狼のラビリンス』へようこそ。
黎翔と夕鈴が大好きな管理人・慧ネンが、溢れる妄想を書き殴るために作ったブログです。
原作沿いや現代パラレル、色々ありますので、お好きなお話をお読み下さい。
よろしくお願いします。

†いらっしゃいませ†

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